吾輩は殿(との)である。
何やらイワの部屋から馴染の薄い音がする・・・何事ぞ・・
Can you compliment me in English? 英語だ。
ルビー姉御も困惑しておる・・
ルビー姉御はノルウェージャンフォレストキャット、つまり洋猫だが英語は解さないらしい。
イワの目は英語を教導するテレビ番組に向いている。昨日は「ベーシック数学」だった。物理の時もあるし、韓国語講座の時もあるし、料理手ほどきの時もあった。
イワはテレビ番組など観てはいない。ひたすらに思慮している。ときどき、口元が動くことがあるのとて吾輩は見逃していない。誰かと談話しているようでもある。イワには常人とは異なる心の置きどころがあり、その魂は彷徨しているように思う。吾輩は猫といえども、否、猫故に人間に勝る嗅覚がある。これは毫も疑を挟さしはさむ余地のない事実である。
女中が来た。
「イワオさん、寒くはないですか」
イワは返事しない。聞いていない、意識はここにない。
すると女中、巖さんの肩をトントン、「イワオさ~ん」、耳元で声を張り上げた。
「ん?」 イワは女中の方を向いた。こちらの世界に戻ってきたようである。
「寒くはないですか~」
「寒くはないがね」
「それなら、よかったです~」
すると、今度はイワが女中に話かけた。イワから物言うとは極めて稀なことだ。
「駅のあそこあたりにボクシングの作るから。使ってない家がたくさんあるから、それが全部自分のものになってきたんだ。今日は、それが全部タダだからね」
イワが思慮していたのは、この事であろうか・・。
「あらー、そうなんですね。だからイワオさんはいつも駅にいらっしゃるんですか?」と、女中。
「そうなんだ。だんだんと良くなってきたんだね、浜松がね。こっちに運が向いてきてるんだね」
「そうですよ!よかったですね!もうイワオさんの勝ちです!」
「・・それは、そうだ」
「イワオさん、どうぞゆっくりなさってください。もう安泰ですよ。長い間、本当にお疲れさまでした」
女中はイワに頭を下げた。いつになく慎み深い。あの乱暴者と同一人物とは思えぬ豹変ぶりだ。
イワの頬が緩んだ。
「ああ、そりゃどうも」 そう言うとイワも頭を僅か下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます。さ、お昼ご飯にしましょうか。今日はお刺身買ってきましたよ」と、女中。また頭を下げている。
人間というものは、奇怪な動きをするものだ・・。
「はい」 イワは小さな返事をして腰を上げた。
刺身とは一体何ぞ?
明日に続く