2019年09月27日
ゲスト河野義行さん・第25回「袴田事件がわかる会」続報①
みなさま、長らくお待たせいたしました、続編です。
トップバッターの秀子姉さんは、ローマ法王と巖さんの面会の可能性について報道されていることに関連して、巖さんが獄中でカトリックの洗礼を受けた事などについて話されました。
「みなさま、ようこそいらっしゃいました。25回目でございます。巖をローマ法王に会わせていただけるかどうか、まだ決まったわけではありませんが、そのことについて少しお話いたします」と始まり・・
まず、巖さんがクリスチャンの洗礼を受けるに至る話に。
「愛の招きの会」というキリスト教の会がクリスマスに死刑囚にお菓子を差し入れてくださることに巖さんが感謝し、自分は行けないから代わりにお礼に行ってくれるよう頼まれた秀子姉さん。(巖さんは、度々そのようなお礼を秀子姉さんに託しています)
「それで、行きました。そしたら、私たちは死刑囚と会うこともできるし文通もできるとおっしゃいました。そして、その方が巖と文通をしてくださいました。
母親が亡くなっておりましたので、その方を巖は母親のように慕っておりました。この方から志村神父様を紹介されて、教誨を受けるようになっていきました。カトリックのね。死刑囚は、教誨というものを受けることができるんですね、キリスト教でもなんでも。
そのうち、巖が洗礼を受けたいって言うんですよ。こんなところにいるんですからね、「それもいいね」と私は言いました。それで、洗礼を受けて「パウロ 袴田巖」という名前をいただきました。1984年12月24日のことです。それで、カトリック信者になったのでございます。それからあと、おかしくなっちゃって、色々ありますがね、そういうことでございます」
その関係で、法王様がおいでになるというので弁護団やバチカンの関係者、宗教者が尽力されて、秀子姉さんも法王様への手紙を書いてそれらの方々に託したとのこと。
「まさかね、法王様に会って頂けるとは思ってもことですが、私はね、いいと思うことは何でもやろうと、そう考えているんです。まだ2カ月ありますので、そのうち、どちらかね、お返事がいただけるのではないでしょうか。大変いいニュースでございます。それで、皆様にお知らせいたしました。
そんなことで、巖はカトリック信者となっておりますが、今日この頃は、神社仏閣に行ってお寺さんでもなんでもパンパンパンと拍手を打ちましてお参りをしております(笑)。
巖は体は元気ですが、精神的には、まだまだ刑務所の尾をひいております。
これからも私もがんばっていきます。よろしくお願いいたします。
10月は、徳島(日弁連人権擁護大会)、鹿児島(大崎事件関連)、11月は弘前、名古屋、豊橋へ行きます」
秀子姉さんは、冤罪や人権についての集会に引っ張りだこです。
次に河野義行さんのお話、お届けします。
「こんにちは、河野です。今日は、私の生き方の話をしてくださいとのことですので・・」そうられた始められた河野さん。
「私は、事件前も事件後も、生き方としては、実は変わっておりません。基本的には、親とか子とか土地とか家とか、そういうものに縛られるのがキライです。自分の人生だから、自分で決めてやって結果に対しては自分で責任をとっていく、そういうスタンスでずっといます。
ですから、事件があってから私が豹変したわけではない」とのこと。
そして、結婚にもそれが貫かれ・・ご自分流の二人だけの結婚式で新たな人生のスタートを切られたとのこと。
これが、意に反したことには安易に流されないお二人の姿で、ちょっと・・いいでしょうか。
河野さんに怒られるかな・・と心配しつつ・・書いてしまおう
「教会に入りますと、まず、名簿に署名する。妻はいきなりこの場面で2才年をごまかして書いておりました。(会場爆笑)緊張したから間違えたかなと思って、「違うぞ」って言ったんです。そしたら、「いいの、いいの」って言うんです・・いきなり神様の前で年を2才もごまかして、これが私たちの結婚のスタートだったんです。・・・(会場爆笑)そんな中で式が始まると言う時に、今度は牧師さんとケンカです。なぜ、ケンカすんの?って・・実は妻は、自分のために自分が作ったブーケを持って行ったんですが、それは生じゃないからダメだから、こっちが用意した物を使ってくれって牧師さんがいうんですね。私はクリスチャンではなかったんですけども教会での結婚式を(教会が)受けたということは、これ、商業行為じゃないの、という言い方したわけですよ。だから、商売に宗教持ち出さないでよ、お互いにもめだすわけですよね、そこで。妻が言うわけです、「じゃー、この式、やめようよ」(会場爆笑)じゃ、やめてもいいか、というところでホテルの支配人が間に入って牧師さんを説得して、結果的にはそこで結婚式をあげることができたわけです・・・」
なかなかのカップルですよね。この精神が、後のサリン事件災難に立ち向かい乗り越えられるのです。
そして仲睦まじくご家庭を築いていって、続けて3人のお子さんに恵まれ・・
(子どもも育ち)「夜、妻と話をしました。今までいろんなことがあったけど、自分たちは好きなように生きてきた。そういう意味では、自分たちはいつ死んでも悔いはないよね」。そんな話をした10日後、1994年6月27日、平成6年で松本サリン事件が発生したのだそうです。
「仕事が終わって8時前に帰り、家族と食事をし、テレビみて、新聞読んで・・普段と全く変わらない一日が終わろうとしていました。時刻は11時ちょっと前です。突然です。飼っている2匹の犬が異常を起こし死に、妻が体がおかしくなる・・続いて私、長女。家族が次々体調不良を起こす。
救急車を呼んで病院に運ばれるわけですが、医師は食中毒を疑ってた。私が激しくもどしている、そういう状況から、「河野さん、一体何食べたんですか。水は飲んだんですか、飲まないんですか」そんな食べ物に関する問診が行われている中、突然、病院がパニック状態になりました。なんだか知らないけど、次から次へと救急車が入ってくる。病院のいたるところで叫び声が聞こえる。「助けて~」。そして、医師と看護師の会話が断片的に入ってきた。それによると、どうも私の自宅周辺で白い煙のようなものがあがっているらしい。都市ガスが漏れてるんじゃないか。そんなような断片情報が入ってきた。それで、我が家だけではないという事が知ることができました・・」
大事件の始まりが生々しく語られ・・サリンというのが表に出るのが7月3日。7名が亡くなります。
「そんな中、私が疑われていくんですね」
みなさんもご存知と思いますが、それは、河野さん宅に20数種類の薬品が保存されていたからです。長年使われてはおらず埃だらけでしたが。
「なぜ私がそんな薬を持っていたかというと、私の趣味です。写真の現像から引き延ばし、それを自分でやっていた。陶芸も。それらに使う薬品。それらの中に、警察が関心をもつ薬があったんです。それは写真の現像につかうシアン化合物。青酸化合物とも言います。猛毒なんです」(子どもが3人年子で生まれて、趣味どころではなくなり長年しまったまま)
一般家庭にないこの薬品が、今回7名が亡くなった原因物質であるならば証拠として保全しようと警察は考え、河野さん宅の強制捜査が翌28日に行われ、その夜10時に警察が記者会見。強制捜索の罪状、それは被疑者不詳、つまり容疑者がだれか分からないけれども殺人罪であるという発表。ここで、長野県警が河野さんの実名を発表したもので、大変な事態になります。
河野さんは語ります。それは、冤罪が作られる典型的な構造でもあります。
「実はこの記者会見で、マスコミの経験則が働いた。個人の住宅が強制捜索を受けて、警察がその家の主を実名発表した。マスコミ的には「決まり」ということです。つまり、あの人が犯人だという方向性がそこで決まったという事。ですから、翌日の新聞からは犯人視報道が繰り広げられるわけです。初めは、会社員がどうも変な薬品を混ぜて毒ガスを発生させたらしい、と言うような記事です」
そして、ありもしないこと、言いもしないこと、たとえば会社員が救急隊員に「薬品の調合を間違えたとしゃべった」・・(情報源は警察関係者)がマスコミによって世間に広められていく・・。
「他の社は合わせるわけです。それでお互いに、言ってみれば私の怪しいところを探し、それを記事に持って行く、そういう報道が繰り広げられていく。色んな記者が色んなところへ行って情報を得て記事を書いても、紙面に反映される記事というのは決まってる。選択されていくということ。「この男はこんなに怪しい」という記事しか、選択されていかない」
そして、疑惑がどんどん増幅されていき、「今度は市民が反応していく。7人も殺した悪い奴、俺が懲らしめてやろう、という人が出てくるんですね」
そして河野さんは原則を強調。
「これは、原理原則から反していますよね。仮に私が犯人であったってですよ、私に対して罪相応の罰を与えるのは裁判所であるはずなんです。しかし、そういう状況になると、言ってみれば、寄ってたかってです。市民が叩きます。言ってみれば、自分の周りが、ほとんど敵」
「市民」という「見えない相手」との闘いが始まる中で、河野さんの真骨頂が現れるのです。
報道が始まったその日から、河野家には、無言電話、嫌がらせの電話が殺到。
この電話をとっていたのは、当時高校1年生で離れにいたためサリンの被害を免れたご長男です。両親、姉は重病で入院。家に残されたのは高校1年生の彼と中学生の妹だけ。電話が鳴る、受話器をとる、何も言わない。受話器を置くと、またすぐかかってくる。中には、「人殺し」「町から出ていけ」というのも。これの繰り返しだったそうです。
「長男が血相を変えて病室にやってきました。『お父さん、無言電話、嫌がらせの電話、半端じゃない。たまんないから電話番号変えてほしい』
このように言いました。確かに、電話番号を変えれば、そういう電話は入ってこない、百も承知です。
しかし私は反対でした。
長男に言う。
電話番号を変えるということ、それは現実から逃げるということだぞ。うちは、今ここで逃げていたら、おそらく世間からつぶされるぞ。辛いかもしれないけれども、どんな電話に対しても正面から真摯に対応していく、それが大事だと思う。
無言電話であったならば、あなたはおっしゃることがないようですから、この電話切らせていただきますね、そう言って電話を切れ。
「人殺し」「町から出ていけ」と言われたときは、「あなたは、どうしてそんなふうに思ってしまったのですか。よかったらお父さんと会って話をしてみませんか。お父さん、あなたにお会いしますよ」そう言うわけですね。
そして、ご長男は父親に言われた通りにするのです。すると、相手は電話を切ってしまったとのこと。
「また、脅迫状、20数通きております。私は、全ての手紙に返事を書いて送ったんです。100パーセント戻ってきました。そんな人はいない、そんな場所はないという状況です」
そして、ご長男に病室で話されたこと、これが衝撃的でした。そのままご紹介させてください。
「世の中というもの、誤認逮捕というものも、あるぞ。何も悪いことしていないのに逮捕されること。また、裁判所が間違ってジャッジする、ミスジャッジ、これもあるぞ。
今の状況でいけば、お父さんは7人を殺して、(結果的には負傷者600人だったわけですけど)数十人を負傷させた殺人未遂で起訴された、それで有罪になれば当然死刑判決になるわな。
最悪がすべて重なった時、お父さんはおそらく死刑ということだわな。もし、そうなってしまった時、死刑の執行、その日がきた時、お父さんは言うよ。
「あなたがたは間違えましたね。しかし、赦(ゆる)してあげます」そう言って刑の執行、受けるわ。
・・・まぁ、それも人生の一幕、というのであれば、それは受けるしかないわな。そうならないために最大限の努力は必要だわな。結果はおまかせでいい。しかしプロセスでは最大限の努力はしようじゃないか。
そういう話をしたわけですね」
このような事、言える人が他にいるでしょうか・・。
河野さんは特定の信仰はもっていないと言われています。
後に、このご長男が「父は毅然として立派だった」と語っていますが、このご長男も一人で大役をこなして、それはそれは立派なのです。
「そして、まず、弁護士をつけることにしたんです」と河野さん。
・・・・・
河野さんの落ち着いた静かな語り口に、事の深刻さ、緊迫感が一層迫りました。
続きは・・また
Posted by 袴田家物語 at 23:58│Comments(0)
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